アンプティサッカーを社会と繋がるきっかけに

病気や事故で手足を切断した選手が松葉杖をついてプレーするアンプティサッカー。第5回日本アンプティサッカー選手権大会2015が開催されてから早3ヶ月。ヒュンメルが2014年10月からサポートしている関西セッチエストレーラスは、チームを立ち上げた川合裕人ら3名が現役を引退。川合は協会のメンバーとして、アンプティサッカーの普及、および強化に動いている。関西セッチエストレーラスは年明けからチーム練習を再開。新メンバーも加わり、新しいチーム作りを始めた。


アンプティサッカーとは

30年以上前にアメリカの負傷兵が、松葉杖をついてプレーするサッカーをリハビリテーションとして始めたのがアンプティサッカーの起源と言われる。日本には2010年に導入され、2010年、2012年、2014年と3大会連続でアンプティサッカーワールドカップに出場。2014年メキシコワールドカップでは、初勝利を手にし、決勝トーナメント進出も果たしている。

川合が関西セッチエストレーラスを立ち上げたのは、2012年1月のこと。冨岡忠幸、田中啓史、そして監督に理学療法士の増田勇樹らスタッフが加わった。チーム名はポルトガル語で7つの星を意味。7人でプレーするアンプティサッカーで、選手やスタッフ一人ひとりが輝ける星のようになろうという思いが込められている。

アンプティサッカーは、フィールドプレイヤー6名とゴールキーパーが、25分ハーフ、40m×60mのコートで戦う。フィールドプレイヤーは、主に片足の切断者で、日常生活で使われる通常の松葉杖「クラッチ」をついてプレーする。GKは主に片腕を切断しており、片腕だけでプレーする。障がいの度合いは選手ごとに異なるが、できるだけ同条件でプレーし、勝敗を競うのがアンプティサッカーである。

例えば、切断ではないものの骨盤を失っており両足の長さが異なる川西健太は、もちろん片足だけでプレー。使わない右足にはユニフォームとは異なる色のストッキングを履き、足を地面につけるとファールになる。GKは、残っている腕の長さにより、セービングがしやすいことから、使用しない腕はユニフォームの中に入れてプレーする。もちろん、選手の中には、日本選手権で引退をした濱田正人のように両腕を切断しているGKがいるなど、同条件にはなることはない。ただ、障がいがそれぞれ異なるからこそ、面白さが増すのが障がい者のチームスポーツだともいえる。

引退の決意

2014年10月にフロンタウンさぎぬまで開催された日本アンプティサッカー選手権大会。関西セッチエストレーラスは、準決勝でFCアウボラーダ川崎と対戦し、スコアレスドローの末、PK戦で敗退。3位となったが、川合に笑顔はなかった。閉会式後、集まったメンバーに川合は涙をこらえながら、朴訥とした感じで切り出した。「来年のこの大会で引退する」

当時48歳という年齢からくる衰えやケガと戦いながら、優勝して引退するんだ、と自らを叱咤し、プレーを続けた川合。2015年5月の「第2回レオピン杯Copa Amputee」では5位に終わり、「すいません」と謝罪の言葉を何度も口にした。スポンサーを受けている以上、結果を残すことへの責任感の強さ故である。もちろん、いい結果を残して欲しいと思う気持ちはあるが、それよりも大事なものがあることは、アンプティサッカーを見ていれば分かる。関西セッチエストレーラスをサポートするのは、その気持ちがあるからだ。

現在はアンプティサッカー協会で競技の普及と、2016年ワールドカップに向けてのチーム強化を担当する川合だが、まだ現役でプレーできるという気持ちはあるという。ただ、お店や家庭のこと、そして何より「新しい選手に出てきて欲しいんです。いつまでも年寄りがでしゃばってたらあかん」という強い願いがある。自分の人生を変えてくれたアンプティサッカーの素晴らしさを伝え、自分と同じようにふさぎ込んだ気持ちでいる人たちに、一歩踏み出すきかっけを作り出すことができればと思っている。

ただ片足がないだけで

川合裕人は、21才の時、交通事故にあう。トラック運転手の仕事を失い、社会人チームでプレーしていたサッカーもできなくなった。左足を太ももの中ほどで切断し、「もう二度とサッカーはできないと思った」という。それでもサッカーに関わり続けたいという思いは消えず、息子のサッカーチームや地元の女子フットサルチームでコーチを務めた。しかし、思いが満たされることはなかった。2010年の秋、日本が初出場したアンプティサッカーワールドカップの特集番組をTVで見て、その存在を知る。「もう一度、オレにもサッカーができる」。そう思った。

三重県伊賀市の「道の駅あやま」でうどん店「味処ささゆり」を経営する川合が、アンプティサッカーの練習に向かったのは、車で片道6時間かかる埼玉県さいたま市だった。家族の協力を受け、月3回埼玉へ。早朝に新聞配達をし、うどん店を営む川合がアンプティサッカーを始めた時には43歳となっており、事故から既に20年以上が経過していた。サッカーに飢えていた男は、持ち前の技術とサッカーができる喜びで、日の丸を背負うように。2012年、2014年とワールドカップにも2度出場、代表キャプテンも務めた。

しかし、サッカーという生きがいに再び出会うことができた以上に、川合にとって大きな出来事がある。「アンプティサッカーを始めるまでは、障がい者って思われるのが嫌だったんです。これはとても恥ずかしいことなんですが、僕自身、子どもの頃から障がい者の人たちを白い目で見ていました。だから、事故の後ずっと、義足を外して人前に出ることはできませんでした。でも、チームメイトから、『片足がないだけで、あとは同じじゃないの』って言われて。その言葉で吹っ切れたんですよね。そこから前向きな人生を送ることができるようになりました」

川合にそう話したのは、日本にアンプティサッカーを普及させるきっかけを作った元ブラジル代表のエンヒッキ・松茂良・ジアスである。5歳の時に交通事故で片足を失ったエンヒッキは、18歳でブラジル代表としてアンプティサッカーワールドカップに初出場。現在は、日本代表として世界一を目指している日本アンプティサッカー界のスター選手である。当時のことをエンヒッキは振り返ってこう語る。「正直あまり記憶がないんですが、でも元々思っていることで。『人間やればできる』って僕はいつも思っていますし、周りの人にもそう言い続けてきました。障がいがあっても、そうじゃなくても、みんな同じ人間なんですよね」

最後の大会

川合にとっての最後の大会は2015年11月22-23日に神奈川県川崎市の富士通スタジアム川崎で行われた第5回アンプティサッカー日本選手権となった。関西セッチエストレーラス立ち上げのメンバーで、2度のワールドカップでも日本代表として一緒に戦った冨岡は、試合前、「川合さんには悔いのないようにしてもらいたい。それを含めて勝ちにはこだわりたい」と語った。大事な初戦は、エンヒッキのいるFCアウボラーダ川崎だった。


関西セッチエストレーラスのキックオフでスタートした試合を、レンズ越しに見ていると、後ろからウォーミングアップをしながら試合を見るAsil Bee千葉・北海道のメンバーの話し声が聞こえてきた。「あのヒッキの切り返し、分かってんだけど、やられるよな」と。新メンバーも入った川崎は、エンヒッキが後方に位置し、様子を見ながらのプレー。攻勢をかける関西は、15分過ぎに冨岡のFKがバーに直撃。その直後のFKから、最後は田中がゴール。昨年の日本選手権チャンピオン・川崎をリードして前半を終える。「ヒッキが持った時の距離感が大事」、「シュートはもっとGKめがけていいよ」、「『ハンド』と声を出すのはいいけど、自分で判断したらダメ」など、ベンチで後半への課題が交わされる。監督の増田は「集中切らしたらやられるよ。疲れてもスタッフが治してくれるから」と選手を再びピッチに送り出した。

試合後、エンヒッキは「点をとられたのは予想外の展開で。後半逆転しようと前に出ました。同点になって、セッチの集中力が落ちましたね」と語ったが、関西セッチエストレーラスはPKで同点に追いつかれた後、あっという間に逆転されてしまう。焦る関西セッチはエンヒッキを後ろから倒し、FKからゴールされ、1-3となり万事休す。杖でボールを止めるとハンドになるのだが、避けることのできないシュートが杖に当たったのか、それともブロックしたのかという判定で難しさの残る試合でもあった。

試合後、旧知の審判員に判定の基準を問いただした川合。今後のアンプティサッカーのことも考え、言わなくてはいけなかったところもあるが、最後の大会にかけた思いがはじけた瞬間でもあった。川合が大会後、後悔して語ったことに、「色んなサポートを当たり前だと思っている自分がいた」ということがある。優勝したFC九州バイラオールと準優勝の川崎は、アンプティサッカーでは一つ抜けた存在になっているが、チームで戦えば、勝つチャンスは見出せる。しかし、川合は言う。「チームをまとめることができず、一つになれなかった。チームとしての目的も共有できていなかったように思います。それに、感謝の気持ちを素直に表せないのは、感謝をしていないことと同じになってしまう。色んなものが見えてなかったように思います」と語った。

社会と繋がるきっかけに

初戦を落とした関西セッチエストレーラスは、2日目の決勝トーナメント初戦で優勝した九州に0-1で惜敗。3位決定戦では、川合のゴールなど、TSA FCに3-1で勝利し、2年連続の3位となった。全国に7あるアンプティサッカーのチームの中では、メンバーもスタッフも一番人数が多い関西セッチエストレーラスだが、3名が引退。新しいチーム作りに入っている。今年のチーム活動は、キャプテン翼スタジアム新大阪での初蹴りからスタート。INAC神戸レオネッサのファン感謝祭に招待され、U-13チームと練習試合を行うなど、チーム力アップはもちろん、アンプティサッカーの普及のため、毎月小学校で講演会や体験会を行っている。

次の大会は5月14-15日に大阪市の鶴見緑地球技場で開催予定の「第3回Copa Amputee」。監督の増田は「今年最初の練習には、コートに入りきれないほどの人が参加してくれました。次の大会まで時間もそれほどないので、日々の自主練習から見直して頑張っていきたいと思います。セッチには絶対的なエースがいません。泥臭く、ひたむきにボールに喰らいついてくスタイルで、そんなにサッカーが上手くなくても、「この人たち、かっこいいやん、応援したくなるね」と思ってもらえるように、チーム一丸となって頑張ります」と話す。

自らが立ち上げたチームを離れた川合は、協会のスタッフとして各チームの練習に参加し、日本代表のレベルが上がるように選手の強化・発掘を行っている。今、外から関西セッチエストレーラスを見て、感じることはいくつもあるという。「アンプティサッカーが本当に好きなのか、アンプティサッカーを広めようと思っているのか、疑問に感じるところがあります。僕がアンプティサッカーをやり始めてから今も変わらず大事にしたいことは、僕たちみたいな障がいのある方の後押しをすることです。そして、障がいで引きこもってしまった人を探し、外に連れ出すきっかけを作ること。それから社会に伝えていくことです。そうしたピッチ外での活動も含めて、様々な企業がスポンサーとなっていただいているのだと思います。僕たちはもちろんプロ選手ではないのですが、そうした意味や自覚を持つという観点からすると、プロ意識がまだまだ持てていないように思います」

自分自身の反省も踏まえ、苦楽を共にしたチームメイトにだからこそ言える言葉。関西セッチエストレーラスはもちろん、アンプティサッカーがより成熟した競技に成長していくために重要な要素が、川合の言葉にはあるように思う。「様々な障がいのある人がグラウンドに出て、社会と繋がるきっかけになれば」という思いで、ヒュンメルは引き続き、関西セッチエストレーラスをサポートしていきます。

関西セッチェエストレーラス

関西セッチエストレーラスは、関西地方の選手が中心となって2012年に結成されたアンプティサッカーチーム。2012年、2014年のアンプティサッカーワールドカップで日本代表キャプテンを務めた川合裕人が2015年をもって現役を引退。理学療法士で監督の増田勇樹が新チームを率いていく。

【OFFICIAL SITE】https://www.sete-estrelas.com

RELATED POST