平和スニーカーの収益で谷口稜曄平和講演会を実施

スニーカーを通して多様性を広げ、共生社会を目指すプロジェクト「hummel PRAY」を昨春から冬にかけて4度実施しました。8月に発売した第3弾スニーカーは、長崎原爆被災者協議会と協働した平和スニーカー。先月、その収益すべてを使って、被爆者の谷口稜曄氏と被爆二世で長崎原爆被災者協議会事務局長の柿田富美枝氏の講演会を大阪で2日間にわたり開催しました。

PRAY with Hibakusha

「PRAY with Hibakusha」と題した「hummel PRAY」第3弾は、サッカーJ2の V・ファーレン長崎と2015年より発表している平和祈念ユニフォームでの取り組みをさらに深めていくために、長崎の被爆者の方たちと協働。16才で被爆し、60年以上平和活動を続けている谷口稜曄(たにぐちすみてる)氏にモデルを務めてもらいました。さらに、スニーカー自体にも平和を祈る想いを込めるため、平和のためのカモ柄「peacecamo by nowartt(ピースカモ バイノワート)」を採用。本来は戦争のためのカモフラージュが、花のチカラで平和のためのカモフラージュに変化していく様子を表現した平和スニーカーとなりました。

このスニーカーによる収益はすべて、谷口氏が会長を務める長崎原爆被災者協議会に寄付。日本は、世界で唯一の被爆国であるにも関わらず、広島や長崎、沖縄など平和教育が盛んな地域と、そうではない地域が存在します。今回、長崎原爆被災者協議会の平和講演を他地域の子どもたちを対象に行うことで、平和教育における地域格差をなくしていく一助にしたいと思いました。

当たり前に思っている「平和」が損なわれるということ

平和講演会初日は、大阪市の隆祥館書店で開催。創業時より平和について発信してきた地域の文化サロン的な書店で、2011年より「作家さんとの集い」をスタートさせ、作家と読者をつなぐイベントの152回目として、今回、谷口氏の平和講演会が行なわれました。

会場は約80名が詰めかけ満席に。聞き手を務めた店主の二村知子氏は、「当たり前に思っている平和が損なわれるということがどういうことなのか、今回を機会にお考えいただければと思いました。長崎で被爆を語り続けてこられた谷口さんの思いを私たちは知っておかなければならないと思いますし、私たちには伝えていくべき義務があるのだと今回の講演を聞いて思うようになりました」と話しました。

翌日は貝塚市の永寿小学校で、4年生から6年生の生徒や先生約50名の前で講演。広島と長崎の被爆状況や違いなどについても柿田氏から説明があり、爆心地の焼け跡や崩れ落ちた浦上天主堂の写真、また被爆者が描いた絵を見ながら、当時の状況を子どもたちに想像してもらいました。

続いて、郵便配達をしている最中に被爆した谷口氏が語り始めました。「私は1945年8月9日、当時16歳で、爆心地より約1.8キロのところを自転車で走っていて被爆しました。3000度とも4000度ともいわれる、石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれ、秒速250メートル以上の爆風によって、自転車もろとも4メートル近く飛ばされ、道路にたたきつけられました」

赤い背中の少年

静まりかえった教室に、谷口氏のしゃがれた声だけが聞こえます。被爆後3ヶ月でようやく入院できた谷口少年は、背中が焼けただれていたため、うつぶせのまま、身動き一つできないで寝たきりとなった。治療もままならない病院で、痛みと苦しみの中、「殺してくれ」と叫び続ける少年を見て、看護師たちは、『今日も生きてる、今日も生きてる』と生きていることのほうが不思議だと言わんばかりにささやき合い、家族でさえも、いつでも葬儀ができる準備をしていたようです。

そんな谷口氏を世界的に有名にしたのは、入院時の谷口少年を写したカラー写真『赤い背中の少年』が発表された1970年以降のこと。「この写真は、被爆してから約半年後、1946年1月31日に撮影されたものです」とカラー写真を手に説明をする谷口氏。「私は1年9ヶ月うつぶせで寝ていたため、床ずれで骨まで腐っています。今でも胸はえぐり取ったようになり、肋骨の間から心臓が動いているのが見えます」と現在の写真を手に取って話を続けます。

3年7ヶ月に及ぶ入院生活の後、退院した谷口氏ですが、被爆の苦しみが今もなお続くことが、子どもたちには驚きでもあり、戦争や核兵器が恐ろしいものだと心に刻まれることになりました。谷口氏がカバンから取り出した石は、自らの背中から出てきたものだと言います。「医学的にも解明できない石のような硬いものが、背中から何度も出てきて、私は手術を繰り返しています。平和がよみがえって、半世紀以上が過ぎました。昨今の世相を見れば、過去の苦しみなど忘れ去られつつあります。私はその忘却を恐れます。忘却が新しい核兵器肯定へと流れていくことを恐れます」。谷口氏の背中から出てくる石は、71年前の恐ろしい出来事という過去の歴史としてではなく、その怖さが今もなお続いていることを教えてくれます。

平和だからこそ、スポーツが楽しめる

講演後、5年生の男子生徒は、『みんな、戦争や核兵器は怖いものだと知っていても、あまり心には残っていないと思うから、僕も今日聞いたことを、できるだけ周りの人たちに話そうと思った』と語り、6年生の女子生徒は、『谷口さんの話を聞いて、核兵器はすごく恐ろしいものだと分かりました。みんなが笑顔でいられる時が、私は平和なんだと思います。だから、ケンカを減らしたいです』と話しました。

「大阪に来て、多くの人に知っていただいた。聞いていただいたことに感謝します。今回の講演は、スポーツやスニーカーと平和を繋げた新しい取り組みになりました。原爆が落ちた8月ではなく、子どもたちは修学旅行でもなく、普通の日に平和について、戦争について話し、考えてもらうことができた。そこに意義があると思います。子どもたちにも問いかけましたが、スポーツに熱中できるのは何でだろう、と。平和だから、なんですよ」

2-3年前から肺炎を患い、肝臓も悪くなり、高齢もあり、声が出づらくなった谷口氏。「そんな中で話ができるということ。それには感謝の思いがありますし、また、しなきゃいけないという使命感がある。これからも必要とされる限りは、こうして話していきたい」。核兵器が廃絶するその日まで、死ぬことができないと語ってきた谷口氏だが、「明日の語り手にもなってくれる子どもたちに期待しています」と未来への希望を口にし、2日間におよぶ平和講演会の幕が閉じました。

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スニーカーを通して多様性を広げ、共生社会を目指すプロジェクト「hummel PRAY」を昨春から冬にかけて4度実施しました。8月に発売した第3弾スニーカーは、長崎原爆被災者協議会と協働した平和スニーカー。先月、その収益すべてを使って、被爆者の谷口稜曄氏と被爆二世で長崎原爆被災者協議会事務局長の柿田富美枝氏の講演会を大阪で2日間にわたり開催しました。

PRAY with Hibakusha

「PRAY with Hibakusha」と題した「hummel PRAY」第3弾は、サッカーJ2の V・ファーレン長崎と2015年より発表している平和祈念ユニフォームでの取り組みをさらに深めていくために、長崎の被爆者の方たちと協働。16才で被爆し、60年以上平和活動を続けている谷口稜曄(たにぐちすみてる)氏にモデルを務めてもらいました。さらに、スニーカー自体にも平和を祈る想いを込めるため、平和のためのカモ柄「peacecamo by nowartt(ピースカモ バイノワート)」を採用。本来は戦争のためのカモフラージュが、花のチカラで平和のためのカモフラージュに変化していく様子を表現した平和スニーカーとなりました。

このスニーカーによる収益はすべて、谷口氏が会長を務める長崎原爆被災者協議会に寄付。日本は、世界で唯一の被爆国であるにも関わらず、広島や長崎、沖縄など平和教育が盛んな地域と、そうではない地域が存在します。今回、長崎原爆被災者協議会の平和講演を他地域の子どもたちを対象に行うことで、平和教育における地域格差をなくしていく一助にしたいと思いました。

当たり前に思っている「平和」が損なわれるということ

平和講演会初日は、大阪市の隆祥館書店で開催。創業時より平和について発信してきた地域の文化サロン的な書店で、2011年より「作家さんとの集い」をスタートさせ、作家と読者をつなぐイベントの152回目として、今回、谷口氏の平和講演会が行なわれました。

会場は約80名が詰めかけ満席に。聞き手を務めた店主の二村知子氏は、「当たり前に思っている平和が損なわれるということがどういうことなのか、今回を機会にお考えいただければと思いました。長崎で被爆を語り続けてこられた谷口さんの思いを私たちは知っておかなければならないと思いますし、私たちには伝えていくべき義務があるのだと今回の講演を聞いて思うようになりました」と話しました。

翌日は貝塚市の永寿小学校で、4年生から6年生の生徒や先生約50名の前で講演。広島と長崎の被爆状況や違いなどについても柿田氏から説明があり、爆心地の焼け跡や崩れ落ちた浦上天主堂の写真、また被爆者が描いた絵を見ながら、当時の状況を子どもたちに想像してもらいました。

続いて、郵便配達をしている最中に被爆した谷口氏が語り始めました。「私は1945年8月9日、当時16歳で、爆心地より約1.8キロのところを自転車で走っていて被爆しました。3000度とも4000度ともいわれる、石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれ、秒速250メートル以上の爆風によって、自転車もろとも4メートル近く飛ばされ、道路にたたきつけられました」

赤い背中の少年

静まりかえった教室に、谷口氏のしゃがれた声だけが聞こえます。被爆後3ヶ月でようやく入院できた谷口少年は、背中が焼けただれていたため、うつぶせのまま、身動き一つできないで寝たきりとなった。治療もままならない病院で、痛みと苦しみの中、「殺してくれ」と叫び続ける少年を見て、看護師たちは、『今日も生きてる、今日も生きてる』と生きていることのほうが不思議だと言わんばかりにささやき合い、家族でさえも、いつでも葬儀ができる準備をしていたようです。

そんな谷口氏を世界的に有名にしたのは、入院時の谷口少年を写したカラー写真『赤い背中の少年』が発表された1970年以降のこと。「この写真は、被爆してから約半年後、1946年1月31日に撮影されたものです」とカラー写真を手に説明をする谷口氏。「私は1年9ヶ月うつぶせで寝ていたため、床ずれで骨まで腐っています。今でも胸はえぐり取ったようになり、肋骨の間から心臓が動いているのが見えます」と現在の写真を手に取って話を続けます。

3年7ヶ月に及ぶ入院生活の後、退院した谷口氏ですが、被爆の苦しみが今もなお続くことが、子どもたちには驚きでもあり、戦争や核兵器が恐ろしいものだと心に刻まれることになりました。谷口氏がカバンから取り出した石は、自らの背中から出てきたものだと言います。「医学的にも解明できない石のような硬いものが、背中から何度も出てきて、私は手術を繰り返しています。平和がよみがえって、半世紀以上が過ぎました。昨今の世相を見れば、過去の苦しみなど忘れ去られつつあります。私はその忘却を恐れます。忘却が新しい核兵器肯定へと流れていくことを恐れます」。谷口氏の背中から出てくる石は、71年前の恐ろしい出来事という過去の歴史としてではなく、その怖さが今もなお続いていることを教えてくれます。

平和だからこそ、スポーツが楽しめる

講演後、5年生の男子生徒は、『みんな、戦争や核兵器は怖いものだと知っていても、あまり心には残っていないと思うから、僕も今日聞いたことを、できるだけ周りの人たちに話そうと思った』と語り、6年生の女子生徒は、『谷口さんの話を聞いて、核兵器はすごく恐ろしいものだと分かりました。みんなが笑顔でいられる時が、私は平和なんだと思います。だから、ケンカを減らしたいです』と話しました。

「大阪に来て、多くの人に知っていただいた。聞いていただいたことに感謝します。今回の講演は、スポーツやスニーカーと平和を繋げた新しい取り組みになりました。原爆が落ちた8月ではなく、子どもたちは修学旅行でもなく、普通の日に平和について、戦争について話し、考えてもらうことができた。そこに意義があると思います。子どもたちにも問いかけましたが、スポーツに熱中できるのは何でだろう、と。平和だから、なんですよ」

2-3年前から肺炎を患い、肝臓も悪くなり、高齢もあり、声が出づらくなった谷口氏。「そんな中で話ができるということ。それには感謝の思いがありますし、また、しなきゃいけないという使命感がある。これからも必要とされる限りは、こうして話していきたい」。核兵器が廃絶するその日まで、死ぬことができないと語ってきた谷口氏だが、「明日の語り手にもなってくれる子どもたちに期待しています」と未来への希望を口にし、2日間におよぶ平和講演会の幕が閉じました。

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